圏央道を運転して走っていた。つい先日同じ道を通った時に、美しい緑色だった田んぼの稲が、稲穂になって金色に輝き、一面に豊作を見せてくれた。電線も高い建物もない江戸時代の人々が、どんな気持ちでこの景色を見、感じたか、ハンドルを握りながら想いを馳せていた。
裏千家十一代家元玄々斎(江戸末期)好み、徳風棗は、八代宗哲作である。蓋裏に九粒の籾の蒔絵があり、三粒ほど殻が破れて今にもはじけそうな絵になっている。論語の一説「君子之徳風、小人之徳草、草上之風必偃」という言葉からとって、その名前が付いたと言われる。この教えを簡単に現代語で示してみると、
季康子(きこうし)が政治について孔子に尋ねた。「もし道に外れた者を殺して、世の中を道に沿った善い在り方に向かわせたら、どうでしょうか」
孔子が答えておっしゃった。「あなた、政治を行うのにどうして殺すのですか。あなたが善い行いをしようとされるなら、民も善くなります。君子の徳は風です。小人の徳は草です。草はその上に風が加われば必ずなびきます。」
上に立つ者の善い風が吹けば民は善い方になびく、悪い風が吹けば悪い方になびくというこの教えは、政治以外でも、家庭や仕事、社中を含めた全ての組織にいえること。(今の日本の政治には切に重要であろうし)
一粒が万倍になる喜びと怖さ、まさに両面を感じさせる道具が、徳風棗である。
我が家の徳風棗、身本体の裏には、「嘉永甲寅春 宗哲造也」と書かれている。この年は嘉永7年で、西暦では1854年。11月27日には安政と改元され、安政元年になる。
嘉永7年とは、どのような年であったか。露使プチャーチン、米国提督ペリーなどが来港し、日本は各国と和親条約を結ぶ。吉田松陰や佐久間象山が捕らえられ、京都では御所にまで及ぶ大火があり、井伊直弼が京都守護職となった年でもある。西郷吉之助(後の西郷隆盛)は江戸で藤田東湖と対面し勤王熱高まり、江川太郎左衛門は韮山に反射炉を築造、幕府から下田港付近の警備を委任される。浦賀では新造船鳳凰丸が試運転され、イギリス艦が長崎に入港し修好を求め、オランダは長崎奉行に日本海軍創設を勧告する。幕府は江戸品川台場の警衛を強化、大阪を中心とする沿海防備の為、各藩に砲台設置を命ずる。というように、ざっと歴史の本をさらってみても、開国に向かう激動の時代であったことがよくわかる。
こんな年の春、徳風棗は作られた。宗哲はどんな気持ちで漆の刷毛を滑らせ、器を考案した玄々斎は一粒にどんな万倍を願ったのだろうか。
道具とは、時に人をタイムスリップさせ、無言の内に多くを語りながら人にものを考えさせるという、強い力を持っている。文明の発達が人間の感性を鈍くさせる時、古を振り返り気付かせてくれるのも茶の湯。何と有難いことだろう。
しかし、そこにいる我々が知らなすぎる。まだまだ勉強すべきことがたくさんあると、深く深く反省しながら、この棗を眺めている。
平成29年10月8日 畑中香名子


